w-qey’s blog

日々の入院日記です。双極性障害とPTSDと摂食障害です。

殺生について①

殺す事、生かす事を考える。


殺生をする事は、今は、どうやっても、止める事は出来ないだろう。

 

それでも、一切、無くなる事も無い。

 

少なくする事は、出来るかもしれないが、難しい。

 

減らせたとしても、一面から見て、でしかない。

 

鯨一頭を殺し、食肉にした。
象一頭を殺し、食肉にした。
牛一頭を殺し、食肉にした。
豚一頭を殺し、食肉にした。
鶏一羽を殺し、食肉にした。
魚一匹を殺し、食用にした。
蟲一匹を殺し、食用とした。

 

どれも、一つの命を奪う。
そこから取れる糧が、どれだけあるか。

 

大量に有るモノから、微々たる量しか、得る事の出来ないモノも。

 

大きさで見るか、量で見るか、様々。

 

必要無いから、するなとは、言わないし、言えない。

 

それだけのモノを得る為に、どれだけの命が費やされるか。どれだけの時間が費やされるか。
費やす事でしか、語る事は出来ない。

 

私は殺生をする事については、否定はしない。

 

だが、可哀想だから、そうしたくはないからと言った感情でしないと言うのは、私は考える事は出来ない。
 

必然から、そうせざるを得ないから、そうする事が多い。

 

感情で、心から、そうする、そうしてしまう、と言う事も有るが、その事をとやかく言う事も、私には出来ない。

 

殺すからには、何らかの必然性が有れば、許されるとは思わない。

 

殺して生かす為だとしても、理由を挙げられるか、挙げられれば許されるモノでもない。

 

人は、生きる為に、多くの命を殺す。
命を繋ぐ為、生活する為、己が欲求を満たす為、等様々。

 

それで、その事を、生かす。

 

目的の為に、生かす。他に、生かす為に、殺す。


その行為が、残酷であるか、残酷でないか。
知的であれば、殺す事は出来ないのか、出来るのか。

 

家畜で在れば、殺せるのか、殺せないのか。
野生で有れば、殺せるのか、殺せないのか。

 

私が判断する事は、出来ない。
だが、必然性が有り、そうせざるを得ないのなら。

 

私は、実行するだろう。