w-qey’s blog

日々の入院日記です。双極性障害とPTSDと摂食障害です。

障害を持つという事について②

手助けの手。

 

当たり前の手助け、それが必要だと思うのなら、受ける。

 

受けなくても構わなければ、受けないが、有ると助かる。

 

心掛けて貰える、気にして貰える。

 

それが当たり前の様であるが、受け取り方はそれぞれ。

 

そう言った行為に、慣れる事が出来ない、馴染まない方も、居る。


助ける事、助けられる事。

 

その気持ちをどう、汲み取る事が出来るか。

 

上手く汲み取れれば良いが、中々に、難しい。

 

何処までして貰えるのか、何処までして欲しいのか。

 

お互いの差異と言うモノは、見えない、聞こえない、感じられない。
 

その、物差しとでも言えるモノは、存在しない。

 

お互いに、時間を掛けて、その規格と言えるモノがおぼろげに出来る。

 

それを、別の方に使用する事は出来ない。

 

だが、その曖昧な規格の幅を拡げ、差異を縮める事は、可能だろう。

 

私にとって言える事は、障害を持つという事は、生涯ソレと向き合い、付き合って行くという事。

 

当たり前(健常)を0とすると、障害は-1である。

 

当たり前(障害有り)を0とすると、健常に近づく事は+1である。

 

だが、それは健常者にとっての0でも有る。

-1でも有る。0に近づいた事でしか、ない。

 

それをどう見るのか、それは個人毎に別れる事なので、何とも言えない。

 

健常者は、生涯、健常である事は、無い。障害を持つ事も、十分に有り得る。

 

障害を、自分が、与え得る事も有り。自分が、成り得る事も有る。

 

私は、私自身の事を、良くは分からない。

 

今こうしていられるが、何時どうなるかは判らない。

 

不安がある。誰かと一緒に在る事が出来るのか。

 

その性質は、後々に引き継がれてしまうのか。

 

気にしても、如何し様もない事でもある。

 

だが、考えてしまう。怖くなってしまう。自棄になってしまう。諦めてしまう。不安な気持ちで生きてしまう。
 

それでも、まだ楽しみが有る。楽しくなってしまう。冒険したくなってしまう。追い求めてしまう。安心してしまう。
 

そう言った事を、繰り返している。

 

 

追記

 

精神障害者ですが、20歳過ぎるまでは、健常者として、頑張ってみましたが、さすがにもう難しいかと思い。
最近になって、やっと、障害者手帳を申請しました。
それまでは出来るだけ、自分の障害について、考えない様に、気にしない様に、していました。
気にしなければ、考えないで済みましたから。
落ち込む事も、嫌な思いも、しないで済んでいたので。他の人から言われると、物凄く気にしなければならない、痛くなる気がするから。
実際、言われなければ、痛くないと思えたのに、言われた途端、痛いのを気にしなければならないと、痛みに拍車が掛かった気もします。