w-qey’s blog

日々の入院日記です。双極性障害とPTSDと摂食障害です。

障害を持つという事について①

私自身、障害者です。

身体障害とは別で精神障害

目に見えないがために世間は冷たくて

そんな私を受け入れてくれず社会から孤立。

 

私が障害者だとわかったのはある日友達が「あんた障害あるんちゃうん」という一言でした。

 

その当時は躁と鬱が激しくて一日で気分が変わったりしていました。あと生まれた頃から心と身体の性別が一致しないがために髪型や服装も男子と同じだったり仕草も口調も男子みたいでした。

 

その時まで今まで私は自分が普通と思い生きてきました。決して障害者だと思った事は1度もありませんでした。

 

何故友達は私を障害者だと言うのか。何故友達は私が障害者だと思うのか。

 

その時の私にとって、障害が有るという事は、わかっておらず、息をする事と同意義であり、からかいや、それを可笑しがったりする事は、

 

全く判らない事だった。

 

周りが可笑しがっている、なら、それでも構わないか、とも考えていた。

 

だが、歳が経つにつれて、その事は大きな差になってきた。

 

同じ事が出来ない、同じ様に考えられない、話に付いて行くことすら、難しい。

 

皆先に行ってしまう。それでも、遅れても付いて行く。

 

だがそれは疎まれてしまう。何故、同じ事が出来ないのか。何故、同じ様に進めないのか。

 

それを理解する事が出来ない。

 

友人達にとって、出来て当たり前の事は、多少の差異は有れど、出来なければオカシイ。

 

出来て当たり前の世界に居る。

 

それ以外、というモノを、感じるには、まだまだ世界は狭すぎた。

 

私にとっての世界と、友人達の世界には、大きなズレが有った。

 

人が居れば、それぞれ、違いは有るが、概ね共通している。

 

私と友人達には、接点は有るが、その範囲のズレというモノが大きかった。
 

私にとって、障害とは、何処にでもあるモノであり。誰もが知っているモノだと考えていた。

 

実際、そういったモノを当たり前に目にしていたし、それが、当たり前の世界だと感じていた。
 

友人達にとっては、障害と言うモノは、曖昧であり、滅多に目にする事のない、非日常であった。

 

理解したくても、理解する事自体が難しい。
実際に体験できるモノでも無いし、だからと言って、成る訳にもいかない。

 

擬似体験は出来るだろうが、体験し続ける事は、無理である。

 

ほんの一時、体験したとして、理解出来たとして。それがどの位、理解出来るのか?

 

ほんの一握りの、極僅かなモノしか、判らない。膨大な時間の一時。そこから続く一時。

 

それが、当たり前の世界。
それでも、その僅かでも、理解しようとし、努力する事は、私個人としては、ありがたい。